Diffともいう。
考えや概念が意識が固定化されていると色々しんどくなってくるということが生きてきてだんだんわかってきている。柔軟性のない人に出会うと厳しさを感じるし、また自分がそうなっていると気づいたときも厳しい気持ちになる。
でも人間なので生きていれば自然といろんな物事も思考も固定化してくるのは自然で、ここに二律背反がある。
かなり抽象的な話になってしまうが固定化することの裏には効率化だったり、人生の経験の積み重なりだったり、自分らしさの表れだったり……その中でさらにどうしても譲れない部分の組み合わさりがあると思う。そうした結果が固定化なんだと思う。
怖いのは、固定しきってしまうと『固定しているということにすら気づけない』ということで、これになってしまうと厳しさがグンと増す。
そういうわけで、日々ないしは定期的に差分を感じることを意識的におこなっていくとよいと思っている。
固定化すること自体は人間だから仕方ないと思うし、それ自体に問題があるわけではないとも思う。大事なのは差分に気づけている状態であり続けていることが大切なんだと思う。
まあとはいえ、大層なことをすごく真面目にやらなくてOKだと思っている。
街のビルにあった広告看板が新しくなっているとか、営業時間が変わったとか、道のコンクリートが新しくなっていてこっちとあっちで色が違うとか、いつも買っている商品のパッケージが変わったとか、そういう差分に気づくことを毎日繰り返しているくらいでいいと思う。
気づくだけじゃなく差分を意識的に作ってみるのもいい。
いつもと違う道を通ってみるとかもいいし、スーパーでいつも買っている牛乳と違う牛乳を買ってみるとか。そんなのでもいい。
差分を感じて楽しむことで自分の中のサンプル数みたいなものが増えていく。
昨日は差分を感じるためにコンビニへ足を運んでコーヒーを買って飲んだ。
最近ぜんぜんコンビニコーヒーを飲んでいなくて、ロースタリーから買った豆を自分がハンドドリップしたコーヒーしか飲んでいなかった。おいしいと思っているんだけど、本当においしいかどうかが曖昧になってきていて差分を忘れかけていたからコンビニコーヒーを飲んだ。
自分の普段淹れているコーヒーが自分好みの味だしアホみたいにおいしいということがわかってよかった。
こういう具合に地味な差分を感じる活動を繰り返している。
得意げに書いたけど、僕は誰よりも固定化しやすいと思っているので自戒をこめて書いている。すぐ凝り固まってしまう。
あとここまで書いておいてなんだけど、「差分を感じなくてもいい」という意見もあるだろうし、「固定化していてなにが悪い」という考えもあるだろうなと思う。
それもまた差分ですねと思う。