寿司が食べたくなって寿司チェーン店で現代的な寿司を食べていた。
入店はスマホで予約し、店頭でチェックインし、呼び出されたら機械に予約QRを読ませる。発券された席番号を確認してセルフ着席する。ここまで人の介入なし。
着席したらタブレットで寿司を注文する。寿司がレーンに乗って目の前に運ばれてくる。席はパーティションがあり隣人の顔すらハッキリとは見えない。
会計はセルフレジで、レシートが出ると同時にあらかじめ録音された「ありがとうございました」で見送られる。
帰宅してふと、自宅までレーンが伸びていたらいいのではという気がした。もし技術や条件的にそれが可能だとして、食事体験がここまで人の直接の介入なしにワークフロー化されているのだからいっそ家まで。はたして店の席に座って食べる意味はあったのか、なんとなく直感ではわからなかった。
しかしここまで考えて出前の存在に気づく。スマホで注文すると自宅に届く。料理が自宅にやってきてそれを食べるという行為がどういうものか、すでに知っていた。実質的にレーンはとっくの昔に自宅へ延伸されていた。なんならスマホがまだない固定電話の頃からすでにレーンは引かれていた。
出前を思い出してから、あらためて「はたして店の席で食べる意味はあったのか」を捉えると急に意味はあるように思えた。寿司を食べるためだけに設計された空間で、直接人は介さなくとも空間には他人がいて、なんだか色々とうるさく自宅では絶対に発生し得ない音がしている……自宅での食事体験とは大きく異なる。臨場感といえばいいのかもしれないし、体験の層が厚いとも言える。
あまりにワークフロー化されていて寿司をただ口に運んだだけのように感じていたけど、店では空間や体験も嗜んでいたらしい。店で食べる意味はまだギリギリ残っていた。
ここまで考えないと過程にあるものに気づけないというのはなんともトホホという気はする。
現代は結果主義や効率主義が加速していて、如何にしてゴールまで1本の線で効率よくたどり着けるかという世界観は至るところに整備されつつある。
もしかすると、いろんな最適化された物事の過程にあるものを、見落としているが気づいていない──そういったものが日々にじつは他にもたくさんあるのかもしれない。