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マッチング

人間同士の合う合わないを考えることが多い。そんなことばかり最近はずっと考えている。あまりに難しすぎて頭が痛い。

合う合わないには感情・価値観・順番・タイミング・ペースなど様々なコンテキストが存在する。当人同士だけなら一対一だが、複数人が関わり合うものであれば人の数だけ複雑に絡み合っていく。

人が変わってゆく生き物なのは明白だけど、それにしても数年単位で大きく変わってしまっていってしまう部分が多くて戸惑うことも多い。自分自身の変化にも他者の変化にも、どちらに対しても戸惑う。とはいえ多くの場合はまるごと別人に変わるわけではなくて、変わらない部分も当然ある。人ひとりを形成する部分のうち、どこが変わる部分でどこが変わらない部分なのか、変わる部分と変わらない部分の比率はどれくらいかなんてのは未知数で、誰も把握できないものだと思う。気づくまではわからないけど気づいたときには確実にいつの間にか変わっている。死ぬまでずっと変わらない部分というものはある気はするけど、それは死ぬまでわからないと思う。「直近10年では変わらないけど50年で変わる」とか「理論上は150年で変わるのだけど寿命が先に来る」なんてケースもあるかもしれない。

合うと感じた部分がお互いにずっともしくは長く変わらない部分だったなら長く関係が続くのかもしれない。あるいは合っていた部分が変わってしまっても、自分も相手も同じペースかつ同じ方向で変わったなら結果的にマッチし続けることができて、長く関係が続くのかもしれない。ときには片一方は何も変わっていないのにもう一方がいつのまにか変わってしまって、合わなくなってしまうこともある。非常に流体的だ。

そもそも、人は永遠を求める一方で永遠を成した試しがないのだから、前提の捉え方を変えたほうがいいのかもしれない。こんなにも流体的で合うこと・合い続けることが難しいのだから、合わない・合わなくなることがネガティブなことではないと捉えるほうがいいのかもしれない。

合うこと・合い続けることがそれだけ難しく奇跡のようなもので、それ自体はとてもめでたいことではある。でも合わないことを否定的に捉えすぎて、無理してでも合う方向を求めすぎるフシが今も昔も人間文化にある気がする。自分もついなんとかして合い・合わせようとする意識が働きがちで、それによってフラストレーションを感じたりアンコントローラブルな問題を抱えたりしている。

合わないことを受け止める心をもっともっと養わねばならない。みんなで、文化的に。

でも合わないことを受け止めたくないという人もいるだろうな。「合わないことを受け止めるという考えは合わない」というのもまた受け止めたい。