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繋がり続けるというむずかしさについて

人間にはなぜか別れがある。

いろんな別れがあるけれど、その中でも「話が合う/仲がよい/波長が合うと思っていた人と久しぶりに会ったら合わなくなっていて困惑する」というタイプの別れがある。

なんとなく年齢を重ねるとそういうことが起こるケースは多い気がする。なぜだろう。

学生時代の友人とは特にそういうことが起こりがちだと思う。毎朝学校に行って多くの時間を共にした頃とは打って変わって、生活の状況がお互いに大きく違うからかもしれない。仕事・家族・健康・経済・住環境・思考……大人になるとどれも違ってくる。むしろ共通点を見つけるほうがむずかしいのではないか。そう考えるとむしろ大人が久しぶりに会った友人と合わないことが多いのは当たり前という気もしてくる。

でも僕たちは久しぶりに会うその瞬間までは多くの感覚を共有していたあの頃のイメージを持ったまま会いに行ってしまう。人間は記憶を元にイメージを形成して現在までを継承する生き物だから当然の思考回路ではある。でもだからこそ合わないことの落差が激しくて困惑してしまうということが起こってしまうのかもしれない。

友人や知人から「こないだ久しぶりに会ったらさ〜〜……」なんて話を聞いたりする。そういうときはみんな寂しそうな顔をしている。僕も同じ経験をしたことはあってやっぱりさみしくないと言ったら嘘になってしまう。

人間は好意的なものと繋がりが切れてしまうとさみしいと感じるのかもしれない。例えばお気に入りの愛用していたモノが壊れてしまったらショックで悲しい。そしてそのあとには過去の思い出とさみしさだけが残る。人との繋がりも切れてしまうとそこには過去の思い出とさみしさだけが永遠に続く。

久しぶりという状況を作らないように頻繁に会えば繋がりは切れないのだろうかなんて思う。でもみんな意図的に久しぶりになる状況にするわけではないと思う。生活がだんだん違っていってしまうのだから、ただなんとなく久しぶりと言わざるを得ない期間が空いていってしまうものだと思う。

卵が先か鶏が先かの問題に近しく、人間は変わる生き物だから繋がりが切れることは自然だよと言えもする。たくさんの別れがあるのが人間の文化だし、久しぶりに会ったら合わなくなっていて発生する別れもまた自然だよと言うのは簡単。だけどなろうとしてなった結果ではないのだからどうしても惜しいような悔しいような感情を抱いてしまう。

さみしいという感情はどうしてこんなにさみしく、繋がり続けることはどうしてこんなにむずかしいのだろうか。