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先入観

散歩しているとき昔からある感じの理容室の前を通って驚いた。繁華街にある20〜30代をターゲットにしたサロンで美容師をしていそうな雰囲気のお姉さんがおじさんの髪を切っていた。店名は理容室なのでバーバー◯◯(苗字)のような、いわゆるよくある個人経営の理容店だった。

先入観の持ちすぎはよくないなと思う。別に美容院で働いていそうなお姉さんが床屋で働いてはいけないなんてルールはない。床屋でそういう雰囲気の人が働いていてもおかしくなどない。なんとなく個人店の理容室はおじさんおばさんがやっているようなイメージがあるけど、それもただの先入観で、理容室で若い世代が働いていてもなにもおかしくなどない。先入観を持っていたせいで、ついつい若い理容師が個人店にいるということだけで珍しく感じてしまった。

僕たち人間は様々な場面で先入観を持って生きている。それは学習によって便利に効率的に生きることに役立っていて、脳内では常に最適化が行われている。

自動ドアっぽい扉の前に立つと自動で開く、コンビニはいつもやっていて行けばいつでも大抵のものが買える、冷蔵庫はいつも冷えていて動き続けている、蛇口をひねれば水が出る、ケーキは甘い、イヤホンを繋げばスピーカーはミュートになる、寝て起きたら今日と同じ平和な明日がやってくる。

仮に僕たちが経験による先入観を持てない生物だったなら、世の中のひとつひとつに疑念を持ってなにか例外が起こるかもしれない…と日々を臆して過ごすことになってしまう。経験から『空からモノが降ってきて死ぬことは滅多にないし、基本的に街は出歩いても大丈夫』という先入観とそれに至る前提があるからヘルメットをかぶらずに散歩に出かけられる。先入観を持てなければ空間の情報量が多すぎて脳がさばききれないはずで、まるで地雷原を歩くかのように常に慎重に生きることになってしまう。だから先入観は生きるためには必要不可欠な要素でもある。

話は戻って、なぜ先入観を持ちすぎることがよくないと思うか。先入観以外のことを想像したり発見したり実行する余裕が狭まってしまう気がするからだ。

いわゆるアイデアを思いつきにくくなる気がしていて、先入観があるゆえに本当は自由であらゆる組み合わせがOKなこの世界に生きているのに先入観ベースで物事を考えてしまう。先入観でAとBの組み合わせはありえないとか危険とか過去に似たようなxxって事例があって失敗するとか思ってしまう。もしかすると現代では案外そうでもなかったり、案外ウケたり、Cも組み合わせてみたらうまくいったりするかもしれない。

自分の限界の先入観というのもある。

なんとなく先入観から自分が出来るレベルはこのくらいだよねという枠組みを作ってしまう気がする。例えば学生の頃からこれは顕著で、期末テストで常に上位にいる人たちはいつも自分が上位にいることをイメージしていたし、まわりの人間も「今回の学年1位はAさんかな?Bさんかな?Cさんかな?」という話をしていた。いつも15位くらいを彷徨っているPさんが意外と今回1位を取ることを予想もしない。取れるかどうかは置いておいても自分が1位になることをコンマ1秒も想像すらしない。

大人になっても限界値の先入観は常にまとわりついてきて、なんとなく年収とか、スキルとか、人間性とか、自分はこれくらいのレベルの層の人間なんだろうなというように先入観からそう括ってしまいがちである。

もっとも先入観を用いた限界値の設定は自己の保身という行きていく上で必要な思考パターンではあるけど、向上心や挑戦心の足かせになる気がする。先入観からつい限界値を定めてしまうけど、限界値なんてものは設定するだけムダなので取っ払う方向にしておいたほうがいい気がしていて、そういう意味でも先入観の持ちすぎは自己の幅を狭めることになってしまう気がする。

向上心や挑戦心を持って挑み続けるためには先入観は捨て去って自分の想像以上のところまで飛躍することをイメージし続ける必要がある。


妙に自己啓発っぽくなってしまった。

それはそうと今日は以前までサークルKサンクスでしばらく改装閉店していたコンビニへリニューアル後はじめて行ったのだけど、自分の頭の中では統合されてファミマになってるものだと思っていた。だから、ファミマに入店したつもりでいた。

でも実際はなぜかその店舗はリニューアルでローソンストア100になっていて、家に帰ってからぼんやりしていてふと「アレ?そういえばローソンだったな?ファミマに行ったはずでは?」とか思ってしまった。同じ緑色ベースだからか店内ではずっとファミマのつもりでいた。

先入観をうまく運用できないとすぐこういうバグが起きてしまう。