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やめること

なにかをやったりはじめたりするには大変なエネルギーが必要だけど、同様にやめることにも大変なエネルギーが必要だと思う。

“やめることにも"とはいうけれど、よくよく考えると「やめるという行為をする」わけなので「やめることをやる」とも捉えることができる。こう捉えてみるとエネルギーが必要なのは至極当然というふうにも感じられる。というよりむしろやめるときのほうがあれこれやらないといけないことが多くてエネルギーが必要な気もする。

ちょっと前に書いたように僕は会社をやめたのだけど、入社するときよりも、やれいついつまでに引き継ぎだのドキュメント作ったりだの通常業務と並行しての作業が沢山あるし、社会人なので公的機関への事務手続が強制発生するし、やめてからも色々書類を提出したりしないといけなかった。あとあたりまえだけど上司や社長の同意を得ないといけないとか、社員のみなさんへのご挨拶とか、お世話になったのでお菓子を用意するとか、まあ色々ある。

なにかやろうとかチャレンジしてみようとしてはじめたことをやめるのもわりとエネルギーいる気がしていて、「これ結構出費したしな〜」とか「ここまで使った時間考えるとやめるのが惜しい気がするな〜」とか「ここでやめていいものなのか…?」とかしっかり決断できるまでにはいろいろと葛藤があってエネルギーを使う気がする。

やめる行為についてはすべてがそうじゃないけどたまに、なんでやめるんだと怒りだす人がいたりする。興味関心がすこしでもあれば「なんでやめるんだろう」とはみんな思うだろうしそれは仕方ないことだけど、怒りだす人がいると空気が変わって妙な感じになる。怒りだす人が出現しだすとなぜかやめることに対してなんとなく消極的ないしは否定的なネガティブっぽいムードが漂い始めて、なんとなくやめる行為自体にすごく否があるような雰囲気になってしまう。そういえば感覚上のことではあるけれど、やめることを尊重するようなムードはそんなに感じたことがない気がしている。

これも僕個人の感覚なので実際は違うのかもしれないけれど、そもそもやめることは生活上のあらゆるトピックの中でもかなり特異なトピックに位置しているような感覚がある。なぜなのか。やめることは僕たちの生活で頻発するトピックではないからニュース性が高いのではないかという憶測があるのだけど、もしそうなら僕たちはやめることに対してひどく不慣れで耐性がなさすぎるように思う。人生においてやめるという行為に触れる回数が他のトピックに比べて少なくて過敏に反応してしまっている気がする。


なにが言いたいとかそういうのはないのだけど、なんとなくやめることに対して僕も含めて過敏すぎるような気がしているし、やめることを尊重する文化性があまりないような気がする。

やめることには大変なエネルギーが必要で、やめることに至るまでには必ずなにかしらの理由があるはずで、やめる理由や必要がなければ本質的にやめることには至らないと思う。やめる決断をしたことをよほどの理由がない限りは尊重していきたいように思う。

こういうことをしばらくぼんやり考えていた。