ヒトナツログ

まだ京都にいる。

さようならを聞かなくなった

日常のあいさつの定型句として

  • おはよう
  • おやすみ
  • こんにちは
  • こんばんは
  • ありがとう
  • よろしくお願いします
  • おつかれさまです

これらのようなものがあり、万人に共通し日常的に使われているのもこのあたりだと思う。

表題の"さようなら"もこれら日常の定型句に含まれている気がする。さようならという意味がわからない人はいないと思うし、誰しも実際に使っていたはず。でも最近全然さようならを聞かない気がしている。

いつから我々はさようならを聞かなくなったのだろう?(もちろん今も日常的に聞く機会のある人はいるとは思うけど)
小学校の頃は帰りのホームルームの時間の〆に先生が『それではみなさんさようなら〜』と言ってそれに続いて復唱していた記憶がある。中学校の頃でも部活の終わりとか校門に先生が立っていて「先生さようならー」『はい、さようならー、気をつけて帰るんだぞ』みたいなやりとりがあった。高校の頃からあまり聞かなくなる&言わなくなる傾向がついてくる気がしていて、先生相手にはさようならと言っていた気がするけど、同級生にはしばしば「じゃ、おつかれー」という感じの対応になっていたような感覚がある。大学生になると突然みんなで示し合わせたかのように完全にさようならを言わないようになる。そういう風に振る舞うように何者かにインプリンティングされたのか?というぐらい急に「さようなら」を言わなくなってしまう。

いつの間にか「さようなら」を聞かなくなってしまった。

大学生以降、人間は「さようなら」を言わなくなるかわりに代替句として「おつかれさまです」ばかり言うようになる生物になってしまうので、なにかにつけておつかれさまと言う。会ったときも「おつかれさまです」、去るときも「おつかれさまです」、なにか声をかけるときも「おつかれさまです」という具合。

おつかれさまということば、便利ワードなので使われるのはよくわかるし、自分もまた例外なくよく使う。ただ、おつかれさまということばがあまりにも頻繁につかわれているせいで、本来の、ほんとうの意味のおつかれさまという意味合いを含むことができなくなっている節がある。なんというかこのことばには中身がないような感じがある。空虚というような、上っ面だけというような、薄っぺらいというような、気持ちがこもってないというような…。

なんというかおつかれさまというワードは一定の距離感を感じさせるような気がしていて、こう…うまく言い表わせないのだけど波風立てないし突き放すわけでもないけど、そのかわり親密になる気もありませんみたいなそういう雰囲気がある気がしている。おつかれさまを使うことで、自らこれ以上の発展性を閉ざしているというような気持ちがある。そういう気持ちがあるので、逆に自分に対して使われると「ああなんというか距離感があるなぁ」という気持ちを持ってしまう。

このような気持ちから、仕事関係の間柄とか苦手な人間以外には「おつかれさまです」はできるだけ使わないようにしている。もっとも普段から「おつかれさまです」と言うほうが機会は多くてクセが付いてしまっているので、ついポロッとそういう気がなくてもおつかれさまですと言ってしまうことはままある。お酒飲んでたり疲れていたりで思考能力が低下しているとすぐポロッと出てしまったりする。そういうときはあとで気づいてから「あ〜〜そういう意味じゃなかったんだよ〜〜〜」と一人勝手に後悔している。

去り際に使うおつかれさまですには『おつかれさまです(また会いましょう)』という発展性は含まれない気がしていて、でも「さようなら」だとなんとなく『さようなら(またね)』みたいなニュアンスが含まれていると思っている。なのでできるかぎり自ら発展性を閉ざしていく必要のない相手に対しては、僕はいつも去り際は『さようなら』を使うようにしている。なんとなく「おつかれさま」だとさみしいではないかという思いがある。


ちなみに親密な間柄になった友人とは『じゃまたね』とか『ばいばい』とかそういうストレートなことばを使っている。

おつかれさま < さようなら < ばいばいorまたね

という親密度の構図が自分のなかであり、誰に対しても本当は「ばいばい」と言っていきたいけど、大人は不自由なので「馴れ馴れしい」と思われてしまう。なので中間のさようならを積極的に使っているということなのかもしれない。なんとかして発展性を生かして閉ざしたくないという思いがあるということがわかる。


様々な感情があり色々書きましたが、ようするに

『みなさんはさようならを聞いたり言ったりしていますか?僕は言っていくようにしています。』

ということが言いたかった。

それではみなさんさようなら。